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桶狭間の戦い2

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    桶狭間の戦い2

    桶狭間の戦い2
    合戦場
    「どこで」、すなわち合戦の行われた戦場については一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に近代以降「桶狭間の戦い」という名称が歴史学上で定着し、文部省の学校教育を通じて全国的に知られている。
    「桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市緑区の有松町(旧・知多郡有松町)に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。
    名古屋市内の「桶狭間」は東海道から南に離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと、合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て、今川方の最前線である大高城に至る。
    名古屋市内の「桶狭間」には、今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。
    一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある豊明市には、「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。
    ここは今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道(鎌倉街道)からはやや南に離れてはいるが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。
    ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録(『守貞漫稿』)にも現れる。
    ほぼ同時代の史料に基づいて合戦場を見ると、『信長公記』では今川義元は「桶狭間山」に本陣を構えたと記録されている。
    「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。
    延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市の桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。
      


    合戦場

    一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村のあたりにある丘を図示したものが見られる。
    こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではないが、「桶狭間山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説もある。
    また『信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されている。
    田楽狭間の場所については、尾張名所図会には「田楽が窪を経て三河の堺川の前なる祐福寺へ入る」、「田楽が窪と言える野を行けば山立ち出るよしおどされて」、「あぶりたる山立ちどもが出であいて串刺しやせん田楽が窪」という一節が残っており、これに表される「田楽が窪」は現在も豊明市二村山周辺に大字として残っている。
    また本来、坪、窪とは窪地や深田である地内を表しており、これを素直に信じるのであれば、当時の鎌倉街道周辺の窪地はこの地を置いて他に無い事になる。
    しかしながら、窪地や深田ではないが、江戸時代から昭和の頃まで名古屋市緑区の有松町桶狭間にも同様の字名が存在していたとされる地(現在の地番は有松町桶狭間北)があり、ここに比定される説もある。
    以上のように、同時代の史料からは丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定できない。
    静岡大学教授の小和田哲男は、「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7mの地点と特定し(この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。
    また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる)、織田軍2000と今川軍5000がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。
    小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしている。


    奇襲
    奇襲
    「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の2つの説にまとめることができる[4]。
    1.「迂回攻撃説」
    善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。
    織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
    2.「正面攻撃説」
    善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。
    信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍、折からの豪雨で視界が効かないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。
    今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。
    「迂回攻撃説」は江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。
    これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が見られる。
    「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根、鷲津の勝利に奢って油断していたとされる。
    「正面攻撃説」を取る者も信長があらかじめ情報をよく収集して(後述)、今川軍が油断しているところを義元の首のみを狙って一挙にしかけたのだというような見解を述べることがある。
    例えば、『信長公記』には「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」(今川義元は塗輿を捨てて逃げた)という記述があるが、総大将の目印となる塗輿が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲をまったく予期していなかったのだという見方がされる。
    油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。
    これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将たちの1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。
    例えば大久保彦左衛門の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。
    また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長があらかじめよく収集していたという見解は非常によく見られる。
    その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。
    この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。
       

    奇襲2
    しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば、信長があらかじめ情報を収集していたという見解にも無理があることになる。
    これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所が一定している保証はなかったはずである。
    何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。
    この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。
    すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。
    一方、この説を考慮に加えて今川方の条件を考察すると、そもそも今川方は油断していたかどうかに関係なく、この戦いにおいて非常な悪条件が重なってしまったと考えられる。
    沓掛城から出てきたばかりの時点ならば、隊形も整っていなかったはずで、十分に準備を整えた新手に猛攻を受けたとするならば大混乱に陥り、壊走することはありうる。
    すなわち、桶狭間の戦いは今川軍にとっては不期遭遇戦であったと思われる。
    さらにこれに、戦闘前後の偶然の雨天と、地形が窪地あるいは丘陵であったために混乱すれば本隊が撤退しにくい、などという条件が重なる。
    つまり、信長から攻撃を受けて今川勢は混乱を来たし、そしてその混乱は一時撤退して立て直せば十分に収拾が可能だったのであるが、それを行う間もなく、運悪く今川義元本人が討ち取られたということである。
    以上の論点により、信長の奇襲とは地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、タイミング上の奇襲であった、あるいは偶発的に奇襲になったのではないか、という解釈になる。
    このように『信長公記』を全面的に依拠する論によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた成功ということになる。
    また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの足軽隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。
    小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。
    ちなみに、この部隊の中に若き日の前田利家もいたとの説もあるが、定かではない。

    人妻
    簗田出羽守の手柄
    上記の通り、簗田出羽守の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問が持たれている。
    また、最初から奇襲作戦を行うとすれば信長があらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。
    そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。
    しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。
    それどころか、敗者である今川家にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。
    簗田出羽守の勲功第一と言う表現に比較的近いものは、小瀬甫庵の『信長記』や『武家事記』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一と言うのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したと言う事実から、後に行われた小説的解釈である。
    ほかに、簗田出羽守が合戦前に偵察や地形の調査を行っていたとも言われているが(『武功夜話』など)、確実なものとはされていない。
    現代では武岡淳彦が軍事研究家の観点から詳細に構想しているほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及している[7]が、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある。
    武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している。
    また、中嶋砦の軍議で出撃に慎重な家臣が大勢を占める中で、簗田だけは作戦決行を強硬に主張して家臣団の消極論を封殺したとする説もある。
    だが、これも戦記物のような本には登場するものの、史料には見受けられない。
    史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったということだけである。
    沓掛を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかはわかっていないのが現実であるといえる。
     
    合戦の総括
    このように、桶狭間の戦いについては様々な議論が交わされており、なお多くの問題が残っている。
    しかし結果のみを見れば、織田信長が苦しい状況下でとった果断な行動の結果、今川義元が倒れ、その後の歴史に大きな画期となったことに違いはないといえよう。
    人妻netの解釈である。

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