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金ヶ崎の戦い

金ヶ崎の戦い
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    金ヶ崎の戦い

    金ヶ崎の戦い
    金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は戦国時代の合戦のうちのひとつ。
    金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ戦国史上でも有名な撤退戦のひとつ。
     
    開戦前
    元亀元年(1570年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)を率いて京都を出陣。
    織田軍の武将のほか池田勝正・松永久秀と言った近畿の武将、公家である飛鳥井雅敦・日野輝資も従軍している。
    結果から言えば越前遠征に向かったわけだが、「越前へ手遣い」(『多門院日記』)とする文面のほか、「若州へ罷り越す」(『言継卿記』)と言う史料もあり、信長から毛利元就に当てた書状(『毛利家文書』)にも「若狭国武藤に圧力をかける」という意味の文面から見ても、口実は若狭攻めであった。
     
    経過
    4月25日、越前国の朝倉義景領に侵攻した織田徳川連合軍は、同日の手筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌26日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。
    これに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように戦線が狭く防御に向いた地形である木ノ芽峠一帯を強化し、防衛体制を整える。
    これには、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と、本家である朝倉義景や、同じ一門衆である朝倉景鏡・朝倉景健らとの序列争いが背景にあり、景恒への援軍を故意に遅らせたとする説もある。
    このように当初は織田方が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江国の浅井長政が突然裏切り、織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃という危機にみまわれた。
    織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと朝倉記には記載があるが、信憑性に疑問が持たれており実際には不明。
    お市の方が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話が知られているが、俗説というのが有力である。
    通説ではこの時殿軍に自ら名乗りをあげたのが、木下秀吉(後の豊臣秀吉)であったと言われている。
    しかし、実際は殿軍に摂津守護の池田勝正がいたため、秀吉が殿軍の大将だったとは考えにくい。
    勝正は信長の家臣団を率いても問題のない人物であるため、機動力の高い織田家馬廻衆に二引両旗など朝倉軍に奪われた場合に将軍家の権威が失墜するおそれのあるものを持たせて逃がし、本隊を池田勝正が率いて撤退戦を行ったとみられている。
    織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めた。


    戦後

    戦後
    信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。
    京都への到着は30日。
    供はわずか十人程度であったという(『継芥記』)。
    池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。
    信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えた(他の武将の恩賞については伝わっていない)。
    なお、朽木は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が朽木を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたと朝倉記にはある。
     
    総論
    初期段階では織田軍の勇戦が目立つ戦いであった。
    しかし、まだ研究段階ではあるが、朝倉義景が近江六角氏からの養子であったとする説があり(朝倉義景の項を参照)、そのために朝倉家内部が必ずしも一枚岩ではなかった結果、もたらされた戦果である可能性も否定できない。
    また信長が無事逃げ延びたのは池田勝正の統率力と明智光秀や木下秀吉らの命がけの戦いのおかげであったが、朝倉本隊・朝倉義景軍の追撃の動きが鈍かった事も大きな要因になったと言われている。
    これに対し、朝倉軍の追撃はごく一般的な速さであったが、それ以上に信長軍の撤退が迅速であったために十分な追撃が行えなかったとの説や、織田軍の統率がとれていてつけいる隙がなかったという説、上記のような朝倉家内部の問題があったとする説などある。
      

    姉川の戦い
    姉川の戦い
    姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年8月9日)(ユリウス暦1570年7月30日)に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町(旧:東浅井郡浅井町野村 域)付近)で行われた合戦である。
    因みに、当時は織田、浅井方ともこの合戦を「野村合戦」と、朝倉方では「三田村合戦」と呼称していた。
    「姉川の合戦」は徳川家における呼称である。
    『信長公記』などに合戦の記述があるが、簡潔な内容にとどまる資料が多く、合戦の詳細については不明な部分が多い。
     
    合戦までの経緯
    尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河国の今川氏を撃退し、斎藤氏から美濃国を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。
    侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。
    信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢親子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。
    その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前国の朝倉氏に対し、元亀元年(1570年)4月には信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。
    優位から一転、突如挟撃された信長は危険な状況に陥ったが、「金ヶ崎退き口」と呼ばれる配下たちの決死の退却戦によって、一命を救われている。
       

    開戦
    開戦
    信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。
    その軍力を恐れた坂田郡の堀秀村などが信長に降った。
    浅井氏の本拠である小谷城へ迫る織田軍に対して朝倉義景は一族の朝倉景健を総大将とする兵を派遣した。
    一方で6月27日には、信長へも徳川家康軍が参着。
    翌28日、姉川河原で織田信長・徳川家康の連合軍28,000(27,000、30,000とする説もあり)と、浅井・朝倉同盟軍18,000(17,000とする説もあり)が琵琶湖へ注ぐ姉川を挟んで戦った。
    戦闘は平地戦で、徳川軍は朝倉軍と、織田軍は浅井軍と対峙した。
    徳川方の酒井忠次、小笠原長忠の隊が朝倉軍に攻撃したのを皮切りに合戦が開始された。
    兵力的には劣る朝倉・浅井両軍であったが、浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備のうち実に11段までを打ち破る猛攻を見せた。
    その激戦ぶりは、「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」と伝えられるほどであった。
     しかし、織田側後詰として横山城の抑えについていた稲葉一鉄らが援軍にかけつけ危機を救う。
    一方、徳川軍と交戦していた朝倉軍は数では上回っていた。
    しかし、理由は不明だが朝倉義景が前線に出なかったため士気に欠け、徳川軍は苦戦しつつも正面突破を強行した本多忠勝や、迂回して朝倉勢を横撃した榊原康政の2将が率いる徳川旗本精鋭隊が加わり、徳川家康の本隊がこれに加わったことで遂に朝倉軍は敗れ去った。
    徳川方に参加していた稲葉一鉄、更に横山城を攻めていた氏家卜全、安藤守就らが織田軍の増援として駆けつけ、浅井軍の無防備な側面を突くと浅井軍も右翼から崩れ始めた。
    浅井・朝倉両軍は北国往還道へ敗走を余儀なくされ、 追撃により多数の戦死者を出す結果となった。
    戦闘は午前5時に始まり午後2時まで続いたと伝えられており、死者は浅井朝倉方で1800人、織田徳川方で800人、負傷者は各方その3倍と推定されている。
    合戦場付近の「血原」「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。

    セフレ
    磯野員昌の活躍についての諸説
    員昌の11段崩しの話については諸説ある。
     
    活躍否定説
    徳川家が長政の娘(崇源院)を娶っている関係上、徳川家の意により後に浅井側の活躍を誇張したもので実際は始めから織田側が圧倒していたとする説。
    徳川軍の活躍により合戦に勝利したことを示すため織田軍が押され気味であったと記述しているとする説。
    上記に類似するが、後に織田家の権力を乗っ取った徳川家としては、信長を一流の武将でないと喧伝する必要があり、その事情から織田軍の劣勢を強調する必要があったとする説。
    上記のように戦死者は織田徳川方で800人、負傷者はその3倍であるとすれば、11段もの陣を崩したにしては織田軍の戦傷者が少なすぎるとする説。
     
    活躍肯定説
    斎藤氏や本願寺との戦いでも苦戦していた織田軍であるから、浅井軍との戦いに苦戦していても何らおかしくはないとする説。
    数に劣る浅井・朝倉軍が織田軍に対して夜襲を仕掛け浮き足立っていたが、徳川や横山城からの救援により敵軍を撤退させたという説。
    信長が姉川の合戦後員昌の離間に心血を注いでいたことから。
    員昌に手を焼かされたとみる説。
    姉川の合戦の戦況に関する織田家の史料は簡潔な記述にとどまっていることから、真実は定かではない。
     
    合戦の影響
    姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が最も信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた多くの武将が戦死した。
    その後、浅井朝倉連合軍は比叡山の僧兵衆や一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで激しい攻防戦が繰り返された。
    これらの戦いでは織田方の被害も決して軽微なものとはいえず、信長の実弟織田信治をはじめ森可成・坂井政尚などの古参諸将を失った。
    業を煮やした信長は浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、周辺敵勢力の掃討に打って出た。
    また、軍事力だけでは攻略は困難と判断した信長は諜略によって浅井家の内部分裂を謀った。
    その代表例が姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。
    姉川の合戦により領国が南北に分断されてしまっていたため犬上郡の佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立してしまい物資の補給すらままならない状態であった。
    そこに目をつけた秀吉が浅井家家中に員昌内通の風説を流し、長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請をすべて拒絶し、兵糧が残り少なくなった員昌はついに織田方に投降し浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。
    セフレbizにおける戦いは壮絶でした。

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