×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

石山合戦2

石山合戦2
信長の戦い
  • 桶狭間の戦い
  • 桶狭間の戦い2
  • 金ヶ崎の戦い
  • 石山合戦
  • 石山合戦2
  • ホーム >> 石山合戦2


    石山合戦2

    石山合戦2
    講和
    天正6年10月、摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重の離反によって(有岡城の戦い)信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。
    これを機に信長は朝廷を動かして和解をする事を試みる。
    朝廷は信長の希望を受け入れて勅使を送ったものの、本願寺は毛利氏の賛同が無いと応じられないとしてこれを事実上拒否したため交渉は決裂した。
    これを受けて信長は毛利氏とも講和する事を決め、毛利氏への勅使が派遣される事になった。
    しかしその直後、第二次木津川口海戦において織田水軍が大勝すると信長は和平交渉を中止し、村重攻略を進めた。
    また、村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったために、反乱自体は長期にわたったものの石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。
    第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ、天正7年(1579年)12月、ついに恒久的な和議を検討するようになり、密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えた。
    その動きを期待していた信長側でも再度朝廷に講和の仲介を働きかけていた。
    そのような状況の中で翌天正8年(1580年)3月1日、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。
    また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。
    以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。
    閏3月7日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は三度目の講和を果たした。
    4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森に退去した。
    しかし、妻子を石山に届けられる兵糧で養っていた雑賀や淡路の門徒は、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。
    故に、顕如が石山を去った後も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠しており、石山を手に入れるという信長の目的は果たされなかった。
    7月2日、顕如は三人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。
    これと前後して荒木村重が花熊城の戦いに破れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって石山の受け渡しを教如派も受け入れて雑賀に退去し、8月2日に石山は信長のものとなった。
    引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。
    これは退去を快しとしなかった教如方が火を付けたと噂されたが(『多門院日記』)、『信長公記』では織田方の過失による失火とされている。


    その後の影響

    その後の影響
    閏3月の講和時、本願寺はまだ1年程度は戦えるだけの余力を残して和議に踏み切ったため、信長は本願寺の軍事力を刺激するようなことは極力避けねばならず、相当の配慮をしなければならなかった。
    しかし、顕如退去後に長男の教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の2派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。
    結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつき、天正10年6月信長の死の直後に顕如と教如は朝廷の仲介により和解するが、顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し三男の准如を嫡子と定めた。
    文禄元年(1592)11月、顕如が死没すると豊臣秀吉の命で教如が本願寺を継ぐが、如春(顕如の妻・教如の母)らが顕如の遺志にもとづき秀吉に働きかけたため、翌年に教如は隠居させられ弟の准如が跡を継いだ。
    慶長7年(1602年)、徳川家康はこの亀裂を利用して本願寺勢力の弱体化を図り、教如に東本願寺を立てさせたために本願寺が東西に分かれることとなった。
    序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。
    石山の次に大きい一揆であった加賀一向一揆は柴田勝家と交戦していたが、講和条件には加賀江沼・能美2郡を本願寺に返付する条項があったため信長と顕如がそれぞれ停戦を命じたものの戦闘は続き石山合戦終結後1年もたたない天正8年(1580年)11月17日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、天正10年(1582年)3月には吉野谷の一揆が鎮圧されて「百姓の持ちたる国」の終焉を迎えた。
    そのため、石山合戦以降は宗教の非武装化がより一層加速され、宗教団体が独立性を失い政権の統制下に置かれる事となった。
    これが日本における政教分離の基礎となったとする見方もある。


    長島一向一揆
    長島一向一揆
    長島一向一揆(ながしまいっこういっき)とは、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。
     
    背景
    長島という地名はもともと「七島」であり、木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指す。
    この付近では本願寺門徒が大きな勢力を持っており、尾張国西南部、美濃国南部、伊勢国北部に一種の自治勢力を誇っていた。
    その規模は数十にもおよぶ寺院や道場で、これらの統制のために文亀元年(1501年)に本願寺蓮如の六男である蓮淳を住職として、杉江の地に創建された願証寺は国人領主層を組織した門徒たちによる地域支配体制を確立するに至り、門徒衆約十万人、石高約十万石(一説には十八万石)を擁したと言われる。
    そのためこれらの地域の寺領は完全に自治独立を果たしており、その強大な勢力に織田氏や斎藤氏をはじめ、各国領主たちはまったく立ち入ることはできなかった。
    稲葉山城を追われた斎藤龍興なども長島へ逃げ込んでいる。
    しかしながら、織田信長の尾張統一や美濃攻略、上洛における北伊勢の侵攻には門徒衆をあげての反抗はしておらず、多くは不介入を続けた。
    なお、北伊勢進攻の際は織田軍は美濃方面から進攻しており、長島は戦場になっていない。
    しかし、これにより長島側は織田信長の勢力圏に周囲を囲まれることとなった。
     
    蜂起
    元亀元年(1570年)9月の本願寺の反信長蜂起に伴って、信長によって領地を追われ長島の地に逃げ込んでいた斎藤龍興、石橋義忠らの非門徒の武士団の連合軍が一斉に蜂起した。
    下間頼旦らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は長島で唯一信長側についていた長島城主の伊藤重晴を攻め落とし城を奪うと、続けて11月には信長包囲網によって完全に孤立していた信長の弟、織田信興を尾張小木江城に討ち、伊勢桑名城の滝川一益を敗走させた。
    翌元亀2年(1571年)、柴田勝家を主将とする2万の兵で長島に攻撃をかけるものの、雑賀衆をはじめ、本願寺から派遣された多くの傭兵集団と鉄砲、また伊勢湾の水軍衆すら完全に一揆側に握られてしまっていたこともあり、反撃をうけてあえなく織田軍は瓦解。
    柴田勝家は重傷を負い、殿軍を務めた氏家直元が討ち死にするなど散々に蹴散らされた。
    天正元年(1573年)9月に北伊勢の諸城を落とし、弱体化に成功するものの、奇襲を受けて林通政が討ち取られるなど、織田側の損害も大きかった。
     
    鎮圧
    天正2年(1574年)6月、浅井氏、朝倉氏を討ち滅ぼして後顧の憂いを絶った信長は、石山本願寺・越前国・長島の本願寺勢を各個撃破すべく大動員令を発する。
    海を九鬼嘉隆、佐治信方ら水軍衆、陸を織田信忠を筆頭とする織田一門衆をはじめ、滝川一益、柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀長、森長可、蜂屋頼隆らの総勢8万とされる大軍勢で囲ませた。
    一揆衆は各輪中に篭って頑強に抵抗したものの、諸砦を次々と落とされ、長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5個所に追い詰め兵糧攻めを行った。
    8月には篠橋、大鳥居が陥落。
    さらなる攻撃に一揆勢は耐え切れず、9月29日に降伏開城、和睦が成立した。
    しかし、信長は一族や重臣を戦死させた一揆勢を嫌悪していたため、長島から出る者に不意打ちをかけて殲滅を謀った(これには、前回の戦いで長島一向一揆側に条約違反があったため、信長が一揆側の和睦申し入れを虚偽と見なしていたとの説もある)。
    ところが、この不意打ちに激怒した門徒衆が捨て身の反撃に出て寄せ手本陣に突入した。
    逆襲を受けた織田一門衆は大混乱に陥り、信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成らを失うこととなってしまった。
    そのため、信長は残る屋長島・中江の2個所は柵で囲んで2万の男女を焼き殺したと伝わっている。
    一揆鎮圧後、門徒による自治領は完全に崩壊し、長島城は滝川一益に与えられた。
       

    一乗谷城の戦い
    一乗谷城の戦い
    一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、天正元年8月(1573年9月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦である。
    但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、激戦地の名を冠して刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)と主に呼ぶ人も多い。
     
    発端
    足利義昭によって敷かれていたいわゆる信長包囲網は、元亀4年4月12日(1573年5月13日)の武田信玄の死去により崩壊する。
    信玄の死去により後顧の憂いをなくした信長は、直ちに京都に攻め上って足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。
    続けて同年8月、遂に信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入った。
    標的は浅井長政、そして何度も信長自身を窮地に追い込んだ宿敵・朝倉義景との決戦である。
    これに対して浅井長政は5000人の軍勢をもって小谷城に籠城し、また朝倉義景も家中の反対を押し切った上で、自ら5千の大軍を率いて浅井長政救援のため、余呉に本陣を敷いた。
    ところが、浅井方の武将である阿閉貞征らが織田に寝返る。
    また朝倉側も重臣らが数年来の軍事疲弊を理由に出兵を拒否、やむなく義景自身が出兵するしかなくなるなど、この頃から織田方の内部工作および朝倉家中の闘争による、朝倉氏崩壊の序曲が見て取れる。
    朝倉軍は小谷城を後詰めすべく、小谷城の背後、田上山に戦陣を構築する。
    同時に大嶽砦(城)などからなる小谷城守備の城砦群を築く。
    一方、信長軍本隊は、田上山と小谷城の間に割って陣取り、朝倉方を盛んに挑発牽制した。
    信長方各部隊も各要衝に城砦、戦陣を構築し、小谷城および朝倉軍包囲を画策する。
    8月12日、近江一帯を暴風雨が襲った。
    信長はこの暴風雨により敵が油断しているはず、と判断し、これを好機と捉えたと考えられる。
    信長は本陣より自ら1000人の手兵・馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦(城)を奇襲した。
    この砦は小谷城を含む連山の、小谷城よりも高所に位置し、朝倉軍の対織田軍に対する前線基地だった。
    朝倉方は暴風雨の中を敵が攻め寄せてくるとは思っても見なかった。
    大嶽砦の守将は討ち取られ、砦は落城。
    同時に朝倉方の越前平泉寺僧兵が守備していた丁野城(砦)も、織田方の手に落ちた。
     
    刀根坂の戦い
    8月13日に大嶽砦の陥落を知った朝倉義景は形勢を判断。
    織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。
    朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、一向一揆などに参加していた農民兵などをも含む旧態依然とした軍容、戦意も低い。
    対する精強かつ近代化された織田軍と正面から戦うには軍容、形勢ともに不利。
    そこで義景は撤退を決断した。
    信長はこれを好機と捉えたと考えられる。
    朝倉軍が撤退を開始するや、自らの本隊を率い、自ら先頭指揮を行い朝倉軍を徹底的に追撃した。
    あまりに果敢な決断と電撃戦であったがために、事前通達を受けていたにも関わらず、織田方の有力な武将らは信長本隊の軍勢の動きに呼応できず、後に叱責を受けている。
    もともと、近江出兵に際し家中意思統一も成されず、織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、退却戦の混乱に織田軍の猛追を受けて"撫で斬り(皆殺し)"にされた。
    朝倉義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも織田信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。
    余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3000人以上(ただし「武将38人、兵3800人」などと、創作的つまり誇大な数字であることを感じさせる記録ではある。
    )と言われる死者を出した。
    朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、結果、北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう名のある武将が多数散っていった。
    織田軍は翌8月14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
    これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢、将はほぼ壊滅した。
    朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。

    逆援助
    一乗谷城の戦い
    8月15日から16日にかけて、信長は味方の将兵を労うと同時に休息を取らせた。
    そして17日には大軍を整え、越前に攻め入った。
    一方、朝倉義景は8月15日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣したが、味方の劣勢を知った国内の武将らで馳せ参じるものも無く、もはや義景の手勢は近習含めわずか500人となってしまっていたと伝えられる。
    ここにおいて、朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、一乗谷を捨てて越前北部の大野郡にて形勢の建て直しを図るように進言する。
    大野郡は盆地であり守るに堅く、また当時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺という、勇猛で知られる僧兵集団が有り、それを頼りに再起を期そう、と促した。
    しかしこのとき既に平泉寺の僧兵も、所領安堵などを条件としてすでに信長と内通していた(羽柴秀吉による事前工作、と伝えられる)。
    8月18日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧、これを焼き払った。
    往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った街は、灰燼に帰した。
    一乗谷突入の際の信長方で、最も際立った働きをしたのは若狭武田家旧家臣らであったと伝えられる。
    このとき、朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が織田軍と戦ったと伝えられている。
    それより以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、景鏡に促され大野郡へと移動していた朝倉義景は8月20日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六松賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢に囲まれた。
    近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃した。
    景鏡は義景の首を持参し、信長に参した。
    義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾など、義景の極近親者は助命を条件に降伏し捕らえられた。
    義景近習の一部はあえて殉死せずに生き残り、彼らの助命交渉やその後の世話をしようと決めていた。
    しかし織田の軍勢は、彼ら義景の係累を護送中に処刑した。
    一部の武将、一族衆らは織田方に参したが、特に重く用いられるものはなかった。
    またその他の親族衆・武将らがその後、小規模な反乱を企てたり、一向一揆と共に決挙したりしたが、数年後、越前一向一揆殲滅のため越前に再侵攻した信長の前には無力であった。
    この後、織田方は軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼした(小谷城の戦い)。
     
    戦いの意義
    この戦いは、戦国大名・朝倉氏壊滅戦と言っても過言ではない。
    大名朝倉氏の壊滅により、最終的に信長の領土は越前・若狭に拡大することとなった。
    そして同時に、情報戦や事前工作があったにせよ、わずか8日間の実質戦闘で名高き古豪・朝倉氏を壊滅に追い込んだ、信長という存在の台頭を、改めて日本全国に知らしめることとなった戦いとも言える。
    逆援助orgと呼ぶ人もいる。

    Yahoo!検索